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KURAで狛犬が紹介されました [その他]

本日(2015年4月20日)発売された月刊誌「KURA」(2015年5月号)にて、
安曇野の狛犬三対が紹介されました。
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信州を愛する大人の情報誌”というキャッチコピーで人気の
長野県ローカルの情報月刊誌KURA。
そのなかの連載企画の「信州発世界へ THE FLAT HEAD STORY」では
アメリカンカジュアルブランドフラットヘッド”の小林社長が登場し、
県内各地を毎回ところを変えて紹介しているのですが、
その今月号が安曇野市ということになりまして。

毎回旅の仲間としてゲストが登場するようで、今回はなんとあの小松美羽さん。
銅版画家として世界的にも有名な小松さんは狛犬研究家としての顔も持ち、
自身で雑誌に狛犬ネタの連載を持つほどの狛犬業界(?)では有名なお方。

今回の取材訪問先のひとつとして穂高神社がピックアップされており、
とくに狛犬についてぜひ案内してほしいというわけで、
窓口になっていた安曇野市のほうから私に要請があったのが先月のこと。

観光ガイドの活動をしている関係からメディア取材の協力を時折頼まれますが、
今回は神社全般というより狛犬を見たいとリクエストがあったらしく、
市の担当者から要請を受けた段階では「狛犬のリクエストなんて珍しい」
と思ったのですが、ゲストが小松美羽さんと聞かされてすぐ納得しました。
狛犬研究家(一部ではコマ女とも)として有名な小松さんは信州出身ということもあり、
いつか機会があればお会いして狛犬談義をしたいと願っていたのですが、
今回思わぬ形でそれが実現することなり、嬉しくもあり、有難くもありました。

神社以外にも美術館を巡ったりするのでタイムスケジュールがきつかったのですが、
それでも穂高神社以外にも信州では珍しい獅子山をもつ伍社宮も紹介したいと伝えると、
急遽予定を変更して獅子山取材もしていただく事ができました。

発売されたKURAを買って中身を拝見。
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合計4ページあるコーナーの先頭ページでいきなりドカンと
穂高神社の若宮社前の狛犬をまじまじ見つめる大写しの写真が。

狛犬の紹介そのものは部分的なものではありますが、
限られた誌面事情を考えれば十分すぎるほどの内容かと思います。
とくに伍社宮の獅子山については当日になって無理やりねじ込んだ取材でしたので、
掲載していただけただけでもありがたい話です。

穂高神社狛犬を二対、そして伍社宮の獅子山と合わせて合計で三対の狛犬。
いづれも自分を介したメディア露出は数年前の「松本平タウン情報誌」以来二度目。
ですが今回はあとにしっかり残りやすい月刊誌ということもあり、
その意味でもけっこう貴重な成果ではないかなと感じています。

そして当日の小松美羽さんとの狛犬トーク。
短いひとときでしたが、とても楽しかったです。
取材した狛犬について解説しているときはもちろん、
取材の合間のちょっとした時間もふたりで狛犬談義に花が咲いて、
しまいには企画の主役である小林社長に苦笑されてしまう始末で(^^;

そんな楽しいひとときをピックアップしたKURAの記事。
県内各地の書店で販売中です。ぜひお手にとってご覧ください。

最後に改めまして、
今回安曇野の狛犬を紹介する機会を与えてくださった
フラットヘッド小林社長と小松美羽さんに感謝したいと思います。
ありがとうございました。

下の写真は取材時の様子です。
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戦時中の寄進 [狛犬・寺社(安曇野市)]

安曇野市堀金烏川、上堀地区の諏訪社。
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安曇野に限らず、諏訪神社とか諏訪社とか、
同じように集落の産土神で同じ神様を祀っている神社でも
社号が異なるのにはなにかしら理由があるのだろうと思われ。
かなり以前に誰かとそんな話を雑談した記憶だけはあるのだけれど、
どんな内容だったか、結論が出ていたのか、肝心な点が記憶にない(--;

とまあ、社号についての話はさておき。
安曇野市堀金支所や堀金小学校などが至近にあり、
旧堀金村のなかでは中心地に位置する神社であった模様。

立派な木造の両部鳥居の傍らには幣饌料供進指定神社の碑。
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鳥居をくぐると両側に立派な台座に乗った狛犬が一対。
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昭和20年3月建立。
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戦前や戦時中に奉献される狛犬などには武運長久の意味が込められたものが多く、
寄進者が出征兵士の家族であることも少なくないとききます。
同社の狛犬も寄進者名がはっきり記されていることから
詳しく調べればそういった奉献背景を知ることができるかもしれませんが、
とりあえず今のところは推測の域にとどめておきます。
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狛犬のデザインは昭和初期のしっかり彫り込まれた岡崎現代型。
腹部がやや絞られたスリムな感じに筋肉質な印象ですね。
岡崎は阿形が玉取り、吽形が子取りのパターンが多いのですが
個人的には玉も子もいない同社のような子がどちらかというと好きですね。

ややもすると岡崎現代型は“ぜんぶいっしょ”の先入観が強すぎるのですが、
じっくり見てみると、それぞれに特徴があって興味深いです。
とくに大正や昭和初期から中期にかけての子達は
見る人がみれば石工による個性もよく分かるそうなので
これから取材時は岡崎だからと敬遠するのではなく
細かなデザインの差異を見極められるよう目を凝らしてみたいと思います。
もっとも、平成になってから大量に出回る大陸系の“なんちゃって岡崎”には
今後も関心が向かないかもしれませんが。

摂社。
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拝殿と社務所。
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拝殿前に最近伐採したばかりらしいご神木の一部が。
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本殿は少し見えづらく、屋根しか確認できませんでした。
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摂社と宝蔵(?)。
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御嶽大権現と道祖神文字碑。
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安曇野では神社の境内に道祖神碑があるのは珍しいことではないです。

境内は背丈のある杉林に囲まれた静かな環境ですが、
きれいに整備されていて気持ちよく過ごせる印象でした。
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(取材日:2014年10月8日)




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消え去った火の見やぐらたち [火の見櫓(北安曇郡)]

また1基、、、もとい、2基の貴重な火の見やぐらが
この世から姿を消しました。

北安曇郡池田町。
大町市の仁科神明宮に程近い正科地区の火の見やぐら。
過去記事:2011年10月28日「屋根をまたいだ火の見櫓」
140420.1.JPG
二階建て消防団屯所を大きく跨いだ独特の姿がユニークで、
遠望すると背景の北アルプスと相性のよかった火の見でしたが、
この春屯所建替えに伴い、撤去されてしまいました。
2011.10.28.2.JPG150418.3.JPG
(↑ビフォアアフター)
この建て替え工事は冬の間続けられていて、
2月初旬頃に訪問した際にはすでに櫓の姿はどこにもありませんでした。
そのとき近所の住民にヒアリングしたところ
「よく分からないけど、また(火の見やぐらを)立て直すんじゃないのかな。」
などと話されたりもしたので、かすかな期待を抱いてはいたのですが、
やはりこのご時世、いちど解体した火の見やぐらがそのまま立て直されるなど、
よほどのことがない限りあり得ないこととですよね。

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左はほぼ一年前の今頃に撮影したもの。右は本日。
満開の桜の姿は相変わらずなのに、そこに火の見やぐらの姿はない。

消防屯所は公民館などと同じ敷地に建っているのですが、
敷地内には先行して設置されていた防災無線塔のほか、
今回新たにホース干し塔が増設されたようです。

こんなこと言うと消防団関係者にどやされそうですが、
やはり味気なさは否めません。
そして、、、寂しいです。

そして、もう一基。同じく池田町で撤去解体されたのがこちら。
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池田町内鎌地区の火の見やぐら。
過去記事:2012年7月7日「バス停になった火の見櫓」

一見これといって奇抜な特徴のないように見える火の見やぐらですが、
過去記事にも書いたとおり、脚部の石の台柱に「大正」の文字が読み取れ、
おそらく大正年間に建築されたものであろうと推測されていました。
120705.2.JPG
裏付けを取っていないので確証はないのですが、推測どおりだとすれば
ひじょうに歴史的に価値ある火の見やぐらであったということになります。

先日も松本市中央で大正15年建立の火の見やぐらが解体されたばかりですが、
ひょっとするとそれより古いやぐらだった可能性もあったわけです。
地域の安全遺産として戦時の金属供出令にも負けずに生き残ったのならば
文化財の価値もあったと思うのですが、今となっては後の祭りです。

120705.1.JPG150418.1.JPG
(↑ビフォアアフター)
こちらは屯所は建て替えではなく改築だった模様で、
火の見やぐらの解体はそれに合わせたものだっただろうと推測。
ちなみに同所は町営バスの停留所になっていて、
バス停の名前が「内鎌火の見前」なんですよね。
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バス停は火の見やぐらがなくなっても、そのままのようです。
火の見やぐらが確かにここに存在したという証明としてのバス停。
なんだかこれはこれで、切ないものですね。

それにしても、、、
火の見やぐらのサンクチュアリとも語られるほど
その存在数(残存数)を誇っていた信州長野県でしたが、
ここ数年の撤去解体ペースの加速度合いを目の当たりにするにつれ、
もはやサンクチュアリなどと呼べる次元ではなくなってしまったかもしれません。

(取材日:2015年4月18日)
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火の見やぐらセメタリー・・・ [その他]

安曇野市某所でこのような場所を見つけたと、火の見ヤグラー仲間から情報を得ました。
そして、出かけてみました。
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解体された火の見やぐらの見張り台たちの、いまの姿です。
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なんとも寂しい光景ですね。
解体撤去されたあとはすぐ鉄の再利用へ回されたりするのかと思っていましたが、
一時的かもしれませんがこのような場所に放置されているとは思いもよりませんでした。

昨年あたりから安曇野でも火の見やぐらの撤去解体が加速度を増し、
これまで取材に当たって当ブログに記事を掲載したやぐらたちのなかにも
現在すでに姿を消してしまったものも数基存在します。
ここに置かれていたのは三基とも3脚柱の安曇野スタンダードともいえるタイプのようで、
屋根と見張り台ともに六角形で避雷針もまだくっついたまま。

うち左端の一基は屋根の塗装のはげ具合などから推測するに、
昨年まで安曇野市三郷の二木地区に立っていたやぐらではなかろうかと思うのですが。
150412yagura5.JPG150412yagura6.JPG
違うかな? どうだろう?
少なくともデザインのタイプとしてはこれとほぼ同類型のやぐらですね。
この二木地区の火の見やぐらは背後屋敷林とマッチしたいい集落景観だったのですが、
今でももうこの風景を目にすることは出来なくなってしまいました。

見張り台たちの周辺にはやぐら本体や梯子の一部も放置されていました。
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なんというか、おそらく関心のない人からみれば
ただの産業廃棄物、鉄屑にしか見えないかもしれません。
幹線道路から奥まった敷地のさらに奥に無造作に放置されたこれらの存在に
気づく人も殆どいないでしょう。

火の見ヤグラーの目から見ると、ただただ切なさだけが募ってくる光景。

大切にしていたオモチャの人形が持ち主の子供に遊んでもらえなくなったあと、
不用品として処分に出されてしまった様子をなぜだか思い浮かべてしまいました。

そういえば自分の子供時代、もう遊ばなくなったオモチャなんかも
捨てることが出来ずにいつまでも取っておいたなあ。
いや、中年になった今でもなかなか物が捨てられない性分なのは変わりがない。
三つ子の魂百までといいますが、火の見やぐらにこだわってる原点って
あんがいそんなところにあったりして。

(取材日:2015年4月12日)
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安曇野狛犬三代記 [狛犬・寺社(安曇野市)]

安曇野市三郷温、楡地区の住吉神社。
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これもまた、取材していたのに記事アップしていなかったシリーズの一社。
(これ、けっこう長いシリーズになりそうw)

同社は安曇野市の南部に位置し、古くから住吉郷の総社として祀られてきました。
鎮座する位置は黒沢川の末端にあるのですが、同川は扇状地特有の河川として
扇央部にくるにつれ水量が減り、神社手前で水がなくなる水無川となるのですが、
古くより大雨の際にはしばし氾濫して困らせていたそうです。
同社がその鎮護のために置かれたという説もあるようなのですが、
それ以上に語り伝えられているのは、坂上田村麻呂の話。

現在は同社の奥宮となっている西山山麓の角蔵山にあった社を
坂上田村麻呂が同地に移したのが始まりとされているそうで、
境内には田村麻呂の像が建立されています。
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歴史好きの一部の研究家によるとこの住吉神社は安曇野の歴史だけでなく
日本史上でもかなり重要な鍵を握る神社ともされているようなのですが、ここでは省略。
というか、歴史を語れるほどの知識は自分にはほとんど備わっていませんので。

旧県社の銘を刻んだ社号標と手水舎を左に見て木造の両部鳥居を抜けると
立派な社叢に囲まれた長い参道が続いています。
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そしてその鳥居を抜けてすぐの両脇に、さっそく一対目の狛犬がお出迎え。
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明治25年(1892)8月吉日建立。
石工棟梁:重盛支七、城取勘七作。
寄附人:小松甚三。
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昭和34年に改修を行っているようですが、本体に補修の痕は見出せないので、
台座などを改めて作り直したかなにかということなのでしょうか。

明治中期の作品は狛犬文化の開化が遅い安曇野では比較的古い年代に属します。
顔のデザインは特徴的でユニークですね。画像はピンボケ・・・。
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目玉をムキっと見開いて、阿形は口に玉を咥え、頭に乗せているのはおそらく宝珠。
一方の吽形は右前足で玉を押さえ、頭には角。
顔つきは明治の割にはかなり個性的なのに身体全体の作りはシンプルなんですよね。
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尾のデザインは阿吽とも同一で、渦巻きが身体に密着した尾付です。
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両脇に石灯籠が並ぶ長い参道を進むと正面に神楽殿。
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そしてその奥に立派な拝殿。
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拝殿正面の両脇に二対の狛犬が陣取っています。
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昭和40年(1965)4月建立。
典型的な岡崎現代型ではありますが、
平成生まれの“なんちゃって岡崎”たちとは違ってこの頃はまだ純岡崎産でしょうし、
デザインは岡崎現代型の完成形といっていい、しっかりした子達です。
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阿形の台座にはこのような記銘がありました。
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明治19年に奉献された隋神(像)があったようですが、
昭和19年2月に太平洋戦争のために供出とあります。
ブロンズ像であったのでしょう。狛犬でもそのような事例が数多くあったようで、
歴史の悲しい一面を物語っています。

そして吽形の台座には改めてこのような銘文が。
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つまり戦後になり、明治時代に隋神を奉献したその末裔の人々が
今度はあらためて石造狛犬を奉献したということのようです。
同じ隋神像とせず狛犬をチョイスした理由はよく分かりませんが、
戦争によって神社と氏子達から奪われてしまった大切なものを、
形がどうであれとにかく復活させたかったということなのでしょう。
氏子さんたちの熱い思いが伝わってくるようです。

伝わってくるのです、が。。。
狛犬ファンの立場からそれでもあえて言わせていただくならば、
この位置への建立はやはり避けて欲しかったかなと。

この位置というのは、大正期制作の狛犬の前面ということでして。
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こちら、大正2年(1913)9月建立。
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台座正面に「明治三十七八年戦捷記念」とありますが、
日露戦争終結から年数がけっこう経っての奉献だったのですね。
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石工は諏訪神宮寺、北原柳太郎です。
北原柳太郎は私が注目している石工のひとりで、安曇野市内では
及木地区の伍社宮の獅子山、そして寺所地区の諏訪松尾神社の狛犬が彼の作品で、
いづれを見ても彼の作風がよく現れた優れた作品といえると思います。

過去記事:伍社宮「安曇野にもある、立派な獅子山」
過去記事:諏訪松尾神社「石工・北原柳太郎の狛犬@諏訪松尾神社」

住吉神社のこの子たちと先の二社の狛犬たちに共通するのは石工だけでなく、
素材がいづれも安山岩の一種である諏訪神宮寺産出の神宮寺石を使用していること。
これは過去記事でも書きましたが、現在はすでに枯渇しており採掘はされておらず、
今はもう伍社宮の獅子山のような大型の作品をこの石で制作することは不可能とのこと。
その意味において素材の面ですでに希少性の高い作品だといえます。
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阿形に角、吽形に宝珠となっているのは北原柳太郎の狛犬の特徴。

伍社宮の獅子山のような大型の作品と、同社のこの子たちとは
大きさにおいて対照的ですが、表情の厳しさと彫りの深さ、
それに胴体の炎立つようなデザインもまた両者に共通したデザインですね。
足の指を大半の狛犬に見られる4本ではなく5本で彫り上げている点も
北原柳太郎作品の大きな特徴といえます。
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唯一残念だなと思うのは、口や目玉が赤く着色されてしまっていること。
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柳太郎の作品に限らず、自分は狛犬に着色は不要だと考える者のひとりですが、
着色は作品を安っぽく見せてしまっている気がして、あまり好きではありません。
もっとも、像の彩色には霊力を高めるためだとか、いろいろと謂われがあるらしいので、
外野の人間があれこれ言うのも憚られるところではあるのですが。

住吉神社は本殿や社叢など、狛犬以外でも魅力はたくさん。
(普通の人にとっては、↑の書き方は前後が逆かもしれませんが。)

本殿は5間社流造で、天明6年(1786)建立。
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住吉造ではないものの、屋根飾りは置千木に鰹木3本という住吉大社の様式を採用。
安曇野市の有形文化財指定。

ご祭神は
底筒男命 (そこつつのをのみこと)
中筒男命 (なかつつのをのみこと)
表筒男命 (うはつつのをのみこと)
神功皇后
といった住吉の神様のほか、建御名方命が祀られています。

ご神木のヒノキの巨木も安曇野市天然記念物指定。
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境内社の坂上田村大明神と摂社。
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参道の入口脇にも蚕影神社の鳥居と、蚕影社はじめ多数の境内社。
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社務所も界隈の神社のなかではかなり立派なほうです。
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グーグルの航空写真などを見ても鎮守の森は安曇野のなかでは大規模ランク。
狛犬についても複数居る神社が少ない安曇野では貴重な存在といえる神社ですね。

(取材日:2014年3月23日、10月31日)




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日本橋の獅子像 [狛犬・寺社(東京都)]

取材したのになぜだか記事にしていなかったシリーズの続き(←なにそれ?)
そして前エントリーに続き、日本の有名な橋シリーズの続き(←なにそれ?其の2)

東京都中央区、日本橋
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日本に存在する橋の中でもっとも有名な橋のひとつと言っても過言ではない日本橋。
日本の道路の基点となっているという話は、なにを今更トークしちゃってんの?のレベル。

江戸幕府が開かれた慶長8年(1603)に初代の橋が架けられ、
以来400年の歴史の中で幾たびも架設を繰り返し、
現在は数えて19代目とも20代目ともいわれる二連アーチ式石造橋となっています。
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明治44年(1911)に完成した洋風デザインを採用した現在の橋は
平成11年(1999)に国の重要文化財に指定され歴史的価値が公的に認められましたが、
日本橋川の真上を走る首都高速が橋を圧迫するように交差していることから
都市景観を台無しにしているといった悪評が立っているのも、悲しいかな有名な話題

で、今日の話題はそうした景観論争についてではもちろんなく、
装飾として橋の両端に据えられている獅子像について。
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北詰と南詰の欄干端部に一体ずつ、計2対4体の獅子像がいるわけですが、
橋中央部の街路灯と一体で存在する麒麟像とともに日本橋の象徴的存在となっています。
(獅子の装飾そのものは他の部分を含めると計32箇所にものぼるらしいですね。)

明治5年(1876)に完成した先代の木造橋の傷みの進行から架け替えが課題となり、
東京市では新橋は耐久性に優れた石橋とすることに決定。
橋本体の設計は土木技師の米元晋一、
装飾部分など意匠担当が建築家の妻木頼黄(つまきよりなか)。
実質的な制作を東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)に委嘱し、
原型制作のうち麒麟と獅子像は彫刻家の渡辺長男、燈柱は熊木三次郎が担当。
鋳造は数々の著名な作品の鋳造を手がけてきた岡崎雪声。
(まるで以前から詳しく知っていたかのごとくえらそうに書いてますが、
正直なところ今回の記事で詳しい名前は初めて知りました(^^;)

石橋といえども完全な西洋的にせず日本の伝統も加味した和洋折衷の様式を
基本として設計された橋は、石橋本体をルネサンス様式とした一方で
装飾部分は青銅を用いて日本的要素も取り入れられたものとなっています。

獅子像の制作については、リアルなライオンのデザインから中世の狛犬の様式まで
基本デザインの検討をした末、最終的に鎌倉時代様式の狛犬に落ち着いたそうです。
その際、ヨーロッパの盾を持つライオン像を参考にしてほしいというリクエストもあったことから、
検討した結果、盾として東京市の市章を持つものとされたのでした。
市章と教えられなければこういうデザインの西洋式の盾と思い込んじゃうかもしれませんね。
2013.06.16.nihonbashi5.JPG
モデルは奈良市の手向山八幡宮の運慶作と伝えられる神殿狛犬とのこと。
が、この手向山八幡宮の運慶狛犬、知っている人なら分かると思いますが
モデルといっても両者の外見的特長はずいぶん異なります。
重文の古い狛犬は他の寺社出身の子たちも何対か指定されていますが、
そのなかで東寺の獅子狛犬のほうが、手向山八幡宮の子たちよりも
どちらかというと似ているのかなという印象もあるのですが。
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明治後年の完成後、関東大震災や第二次大戦といった惨禍や戦時中の金属回収令など
暗い時期を経て100歳以上となった獅子像には外見の特徴以上に
激動の歴史を生き抜いてきた風格も漂っています。

ところでヨーロッパの橋にいるライオン像をイメージしたといっても、
モデルを日本の狛犬に求めた日本橋の獅子像は狛犬のそれ同様に
阿吽一対の取り合わせによって制作されています。されてはいるのですが、、、
見た人はすぐ気づくと思いますが、じつは通常のパターンと阿吽の左右が反対になっています。
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モデルになったとされる手向山八幡宮の狛犬たちは通常のパターンどおり
向かって右が阿形、同左が吽形なので、それを真似たというわけではなさそうです。

特段深い理由などはもともと存在しなかったのかもしれませんが、
西洋のライオンではなく日本の狛犬をモデルとして阿吽スタイルを採用している以上、
その左右を全く無視したとも考えにくいことなので、
なにかしらの背景事情があったのではなかろうかと勘繰りたくなります。

理由をどこかに見つけられないかとインターネットに流通する情報を検索してみたのですが、
阿吽の配置を狛犬のセオリーとは逆配置とした理由について言及したものは発見できず。
関係する文献資料を読めば理由が載っているかもしれないので
いつか機会があればぜひ探ってみたいと思います。

個人的な推測では、古代より続く日本の左上位の思想が
明治以降に皇室において西洋文化に倣った右上位へと移ったことが
何か影響を与えたのではないかと考えているのですが、
これは話が長くなるのと裏付けがまったくないことなので、
また別の機会にでもじっくり考えてみましょう。

ちなみに日本橋の装飾において獅子像とともに有名なのが麒麟の像。
2013.06.16.nihonbashi7.JPG2013.06.16.nihonbashi8.JPG
2013.06.16.nihonbashi6.JPG
世間的には麒麟のほうが有名加減では上位かもしれませんが、
今回のネタはそこではないので、画像で紹介するのみとしておきます。
じつは麒麟の像のほうも獅子ど同様に阿吽の一対で作られていますが、
これ以上書くとホント長くなるので(≒面倒くさいので)今回はこれ以上掘り下げません。
あしからず。

あ、最後に歌川広重の有名な『東海道五十三次之内 日本橋』の浮世絵。
2013.06.16.nihonbashi15.jpg
江戸末期の作品ですが、橋は何代目になるのでしょうね。
絵には当時の火の見やぐらが描かれており、半鐘もしっかり確認できます。
民家の屋根上に梯子の形状で設けられたものですから、町人のやぐらですね。
古絵図や古写真など最近見る機会が増えているのですが、
昔の町の様子を写した写真を見るたび、ついつい火の見やぐらや狛犬の姿を
そのなかに探してしまいますw

(撮影取材日:2013年6月16日)



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難波橋のライオン [その他]

このところ新規の取材に行けずに悶々としているので、
鬱憤晴らし(?)で過去に取材したのに記事にしていなかったものを
順次あげていくことにしたいと思います。
どこまで続くかわかりませんがw

昨年暮れに大阪へ出向いた際に無理やり時間を作って寄り道した、、、難波橋。
中之島の風景がいい角度で眺められるビューポイントですね。
20141213.naniwabashi1.JPG
20141213.naniwabashi2.JPG
そんな大都会の橋のたもと、
どこからどう見ても周囲に神社や火の見やぐらがあるようには見えません。
そこにあるのはただの狛、、、否、ライオン像が一対のみ。
(正確に言えば、橋の両端に一対ずつ、計二対となります。)
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難波橋は堺筋にあり、中之島の両側を流れる堂島川と土佐堀川を渡る橋。
歴史は古く、現在は天神橋&天満橋と並び浪華三大橋と称されているそうで、
江戸時代には公儀橋と呼ばれる幕府の公共工事による橋であったとのこと。
現在の橋は大正4年(1915)築造で、昭和50年の架け替え大改修を経て今に至っており、
ライオン像はその大正4年の新築当時に設置されたものだそうですが、
ネット情報によればヨーロッパの有名な橋にならってライオンの石像が設置されたとあります。
(外部リンク:京阪電車「京阪沿線の名橋を渡る:難波橋」
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その他ネットに出回っている情報のなかで確かなのは、
この像の作者が兵庫県三田市出身の彫刻家、天岡均一であるということ。
その発注者は当時の大阪市長、池上四郎。
台座を含めた高さが約3.5mで、素材は花崗岩製。
そのほか、Wikipediaなどには天王寺動物園のライオンがモデルだとか、
和歌山にこれと瓜二つのライオン像があることから、その設置場所の当時の所有主である
相場師の松井伊助が寄贈したという説があるらしいですが、
その辺の仮説は裏付けがまだ取れていない模様です。
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橋げたに動物や霊獣の類が据えられる例は他にも見受けられます。
日本でもっとも有名なのは、やはり東京日本橋の獅子と麒麟の像でしょうか。
古来、橋は異界と人間界を結ぶ要所であるとされていることから、
こうした霊獣の類が据えられるのは神社における狛犬と同じ役割を
担ってのことと定義づけられることが一般的のようで、
日本橋もそうした意味が込められていると語られています。

では難波橋のライオンたちにその役割が与えられていたのかどうか。
ネットでざっくり調べた限りでは、そこまで詳しく出回っていないようなので、
どなたかご存知の方いらっしゃったら教えていただければうれしいです。

仮にヨーロッパの橋のそれを真似たとする上述の説明が事実だとすれば、
ヨーロッパではライオンは守護獣としての役割を担っていたとされていますから
難波橋でもそうした役割があったとしても決して不思議ではないと思われます。
ましてや北詰南詰ともに阿吽一対で作られているわけですから、
神社の狛犬と同じ発想をもって作られたと考えるのは自然なことかもしれません。
もちろん、そこまでの意味はなかったという考えも否定できるものではないですが。

そんな詳細がよく分からないなかで自分が気になるのは、阿吽になっているその左右の配置。
神社などにいる狛犬たちは向かって右を阿形、向かって左を吽形とするのが基本です。
ところが難波橋のライオンの阿吽はそれとは逆で、手前から向かって左が阿形、
向かって右側が吽形として配置されています。
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そして東京日本橋の橋詰に配置されている獅子像もまた、
じつは同じように向かって左が阿形、向かって右が吽形になっているのです。
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(↑東京日本橋の獅子像)

単なる偶然かもしれません。しかし神社に数多くの狛犬が奉献されている大正時代でもあり、
作者の天岡均一も阿吽の基本配置の知識がなかったとは考えにくい話です。
しかも明治44年(1911)に作られた日本橋の獅子&麒麟像から約4年後に
この難波橋が築造されライオン像が据えられたということからすると、
あるいは日本橋を意識するかたちでライオンが作られたという想像も膨らんでしまいます。

あとひとつ、ふと思ったのは橋の南詰が北浜というその立地。
北浜といえば三越(大阪店。2005年閉店。)。
そして三越といえばライオン像。
(過去エントリー記事「三越の狛犬・・・もとい、ライオン

東京日本橋の三越本店にライオン像の設置されたのは大正3年(1914)で
北浜の開店は大正6年(1917)。北浜の開店時期から考えれば
橋のライオンとの関連性は低いですし、そもそも有名百貨店といえども
公共の橋のそれと民間との関係を論じるのはかなり無理があるとは思いますが、
東京の三越本店の立地が日本橋の橋のたもとであり、
難波橋と堺筋沿いにあった大阪三越店が目と鼻の先の距離であることを考えると、
無理を承知でどうしてもそうした想像を膨らませてしまいます。

まあ三越と橋の関係性についての“妄想”に近い想像はさておき、
明治後期から大正にかけての日本というと、日露戦争を経験する中で
よりいっそうの近代化=西洋化が都市部において進行していった時期だったでしょうし、
そんな時代背景のなかで西洋風のライオン像を制作することは、
官民問わず、ある意味その当時のトレンドだったのかもしれないですね。

北浜といえば大阪取引所(旧大阪証券取引所)。
20141213.naniwabashi10.JPG
公正な商取引ができているか、ライオンさんがしっかり睨みをきかせていましたとさ。

(取材日:2014年12月13日)



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