So-net無料ブログ作成

取り残された火の見やぐらの台柱 [火の見櫓(安曇野市)]

ある調べごとで穂高町石造文化財の資料本を見ていたところ、
ひとつの写真が目に留まりました。それがこれ。
img113.jpg
タイトルに「その他(火の見櫓台柱) 昭和32年」とあります。
火の見櫓台柱というのはかつて火の見櫓が木造であった頃、
その足元を固めるために用いられていた、いわば基礎のようなもの。

現存する木造火の見やぐらで同類の台柱を用いた事例で有名なものとしては
大町市美麻、新行地区に残る木造火の見やぐらがあります。
2015.01.29.6.JPG
このところの火の見やぐら啓蒙活動の一環で新聞に採り上げてもらったり、
TVニュース番組の火の見やぐら特集で紹介してもらったりしている同やぐらは
地元新行地区の住民によって大切に守られてきた、地域の防災記念碑の
意味合いが強いシンボルタワーとなっています。
過去エントリー記事1
過去エントリー記事2

その新行地区の火の見やぐらの台柱に刻まれた建立年は大正15年(1926)4月。
それに対し、今回見つけた写真の台柱は昭和32年(1957)11月と刻まれています。

木造タワー型の火の見やぐらは基本的に戦前のものというのが一般的イメージで、
戦後の火の見櫓の多くが鉄骨造であろうという感覚が無きにしも非ずなのですが、
鉄骨造の火の見やぐらも戦後で普及を始めるのは昭和30年代になってから。
物資不足の戦後の混乱期を経て社会が落ち着きを取り戻し、
頑強な鉄骨造が出回るまではまだ木造火の見やぐらで対応していた事例も
決して少なくなかったのかもしれません。

ということで、資料の写真の場所を見つけるべく、さっそく現地に行ってみました。
場所は安曇野市穂高牧の荒神堂地区。
広域農道の穂高大橋北詰の交差点を西に入り、山麓に向かって走る途中
荒神堂の集落エリアに入る直前の交差点脇にありました。
2015.01.29.2.JPG
集落から見ると標高の低い側にあたるのですが、
荒神堂地区を含めた牧地区のメインになる火の見やぐらはここより標高の高い
山麓線沿いに立っているので、ここの櫓は中継塔のような役割があったのかもしれません。

が・・・・・・

左が現地のいまの様子なのですが。
2015.01.29.1.JPGimg113.jpg
なんということでしょう!(←劇的ビフォアアフターのナレーション風)
残念ながら残存している柱は一基のみとなっていて、
三基のうちの二基は撤去されてしまっていました。

道路状況を見ると近年に下水道敷設工事をしたような感じなので、
その際三基のうち二基の台柱が邪魔になってしまったのでしょうか。
撤去された二基のうち一基には「穂高町消防団」の文字が刻まれていたようですが、
いまは写真左側の建立年の文字を刻んだ柱が立つのみで、
知らない人がこれを見たらいったい何物なのか分からないでしょう。
似たような形状で神社の祭りで使用する幟立柱がありますが、
幟立は通常二基一対で使用されるので、一基だけ残置されている状態では
幟立柱だろうと考える人も少ないのではと思います。
2015.01.29.3.JPG2015.01.29.4.JPG

資料によれば寸法はH170×巾22×30cmと記載がありました。
新行の火の見やぐらの台柱も人の背丈ほどの高さが在りましたから、
この荒神堂の火の見やぐらも同等の高さがあったのではないかと推測できなくもないです。
2015.01.29.7.JPG
地域住民に取材をかければ、あるいは火の見やぐらの立っていた当時の写真など
画像資料が見つかるかもしれないですね。機会を見つけて探してみたいと思います。

それにしても、三基のうち二基まで撤去しておきながら
一基のみ現地にそのまま残したことになにか意味があったのかどうか。
おそらく工事業者が邪魔になる二基だけ撤去するという市や地区との取り決めのなかで
その通りに実施しただけだろうとは思うのですが、現状を見ると不自然な感が否めません。
あるいは背後にゴミステーションが設置されていることに絡みがあるのか。
はたまた、道路やゴミステーションの邪魔でなければと、せめて一基だけでも残して
ここに火の見やぐらがあった記念碑的な意味合いを持たせようとしたのかもしれません。
(真実の分からない今のところは、そういうふうに好意的に考えることにします。)

冒頭の石造文化財の資料は旧穂高町時代の平成6年に編纂されています。
そこに掲載された写真ですでに火の見やぐらが存在していないということは、
木造のやぐら本体は昭和後期~平成初年にかけて撤去されたということでしょう。
背景は安曇野の大地の向こうに北アルプスの峰々が一望できる絶好のロケーション。
2015.01.29.5.JPG
もし今でもここに木造の火の見やぐらが残されていたとすれば、
新行の火の見やぐらにも劣らない素晴らしい景観要素になりえたことでしょうね。
なんとも惜しいことです。

現地を訪れただけではすべての疑問が解消されないので、
また新たな情報や手がかりが得られれば、続報を入れたいと思います。

(取材日:2015年1月29日)




コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

日本書紀で神宮と呼ばれた神宮 [狛犬・寺社(奈良県)]

奈良県天理市、石上神宮。
2015.01.01.9.JPG

天理教教会本部のある天理市は宗教都市として有名ですが、
天保9年に天理教がはじめられるより遥か昔より同地に鎮座する古社。
日本書紀に登場する「神宮」とは伊勢神宮とこの石上神宮の二社のみで、
日本最古の神社のひとつとして名を馳せています。

古代の武門の棟梁である物部氏の氏神であり、
ヤマト政権の武器庫としての役割もあったのではと考えられているそうです。

ご祭神
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)

配祀神
宇摩志麻治命(うましまじのみこと)
五十瓊敷命(いにしきのみこと)
白河天皇(しらかわてんのう)
市川臣命(いちかわおみのみこと)

県道51号より参道を西に向かって歩くとすぐに大鳥居。
2015.01.01.1.JPG
2015.01.01.2.JPG
元日の取材で露店が並び、境内は多くの初詣客でにぎわっていました。

参道左手に社務所。
2015.01.01.4.JPG

右手には山の辺の道が続いています。
2015.01.01.5.JPG
2015.01.01.6.JPG

社殿は参道から左右に折れる形で配されていて、
参道北面に重要文化財の楼門が出迎えてくれます。
2015.01.01.7.JPG
2015.01.01.8.JPG
2015.01.01.10.JPG

拝殿は国宝。
2015.01.01.11.JPG
同神宮への崇敬が厚かった白河天皇が鎮魂祭のために、
永保元年(1081)に宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えられています。
建築様式では鎌倉時代初期の建立と考えらているそうですが、
拝殿としては現存する最古のものであるとのこと。

拝殿奥には本殿がありますが、本来同神宮には本殿はありませんでした。
ご神体は記紀神話に登場する神剣「韴霊(ふつのみたま)」で、
これが禁足地と呼ばれる境内の聖域に土中深くに祀られているという伝承がありました。
明治7年8月に当時の大宮司 菅政友(かんまさとも)が官許を得て調査したところ、
多くの玉類・剣・矛などが出土すると共に神剣「韴霊」が顕現され、
伝承が正しかったことが証明され、明治43年から大正2年にかけて
神剣「韴霊」を奉安するために本殿を建立し現在に至っているとのことです。

楼門の向かい側に鎮座するのは摂末社。
2015.01.01.12.JPG
画像の摂社、出雲建雄神社は式内社。

同社の拝殿はもと内山永久寺(同神宮付近に在った古寺)鎮守の住吉社の拝殿だったもの。
2015.01.01.13.JPG
保延3(1137)年に建立され、その後13~14世紀頃の改築を経て
現在の構造・形式になったと考えられています。
内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院でしたが、
同寺は廃仏毀釈の影響により明治9年に廃寺に追い込まれてしまいました。
その後も鎮守社の住吉社は残されていましたが、住吉社本殿が明治23年に放火により焼失。
拝殿だけが荒廃したまま残されていたため出雲建雄神社の拝殿として
大正3年(1914)に現在地に移築されました。
現在は内山永久寺の数少ない遺構として国宝に指定されています。

ということで、同神宮には狛犬はいませんでしたが、
うっすら雪化粧した神宮の姿はとても厳かで元日に気持ちを新たにするのに
とてもよい参詣となりました。
2015.01.01.14.JPG

以上で大晦日から元日にかけての岐阜~奈良~和歌山方面の取材ネタは終了です。
(1月中に書き終えられてよかった。。。)

石上神宮公式HP

(取材日:2015年1月1日)



コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

和歌山市鳴神地区の火の見やぐら [火の見櫓(和歌山県)]

和歌山市鳴神の火の見やぐら。
2015.01.01.1.JPG

正月に和歌山へ行った際、家の近所を散歩中に遭遇。
寺社巡りと違って今回火の見やぐらについては事前チェックしていないので、
こういう行き当たりばったりでの出会いはなかなか楽しいものです。

鳴神南会館(宮消防分団第四班)の建物と同じ敷地に立っています。

昔ながらの狭い路地が入り組む集落内にあり、
周囲には古い民家の建物や板塀、和歌山特有の紀州青石を用いた石垣なども見られ、
なかなか趣きのいい路地となっています。
2015.01.01.7.JPG
2015.01.01.6.JPG

そんな路地が鍵の手のように折れ曲がったポイントにこの子は立っているわけですが、
平面形状は関西エリア全般に多い4脚柱の台形型。
2015.01.01.4.JPG
短辺になっている部分が梯子を兼ねているというのも関西でよく見かけるタイプ。

さらに和歌山では屋根が極端に小さいというのも典型例といえるようです。
2015.01.01.2.JPG
屋根というより、半鐘が笠をかぶっているだけというような印象です。
和歌山は台風もよく通過し全国的にも雨の多い地方ではあるのですが、
この程度の屋根だとそうでなくてもほとんどどころかまったく意味をなさないと思われ。
それでも真上からの雨はしのげるということで、
吊元の錆びなど腐食は防げるかもしれませんので、
いちおうそういう向きに設けられたものだと考えることにします。

半鐘自体は立派なものがついていますね。

ブレースは平鋼が使われていてターンバックルはありません。
見た目にすっきりといった印象。
2015.01.01.3.JPG

道路向かいは今どきのアパートなども建っていますが、
この狭い路地で未だ火の見やぐら確保できている集落、
今後もできるだけ長いこと地域のシンボルタワーとしてあり続けてほしいものです。
2015.01.01.5.JPG

(取材日:2015年1月1日)
コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

全国「あわしま」神社の総本社 [狛犬・寺社(和歌山県)]

正月の和歌山と奈良方面の記事、まだあと少し続きます。

和歌山市加太の淡嶋神社。
2015.01.01.awashima1.JPG
全国のあわしま(粟島、淡島、淡嶋)神社など
その系統約1000社の総本社とされています。

創建は仁徳天皇の時代あるいはそれ以前に遡り、
もとは加太の沖合いに浮かぶ友ヶ島に少彦名命と大己貴命祀られていたところから。
三韓出兵から帰還の途上に嵐に遭った神功皇后が船中で祈りを捧げたところ、
「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ。」とのお告げがあり、
その通りに船を進めて無事たどり着いたのが友ヶ島だったとのこと。
後年、皇后の孫に当たる仁徳天皇が狩りで友ヶ島に立ち寄られた折にその経緯を聞き、
「島ではなにかと不自由であろう」とのことで現在の地に社殿を移されたのが
加太淡嶋神社の始まりであるとされているそうです。

ということで、ご祭神は
少彦名命
大己貴命
そして息長足姫命(神功皇后)の三柱となっています。

2015.01.01.awashima2.JPG
2015.01.01.awashima3.JPG
2015.01.01.awashima5.JPG
朱塗りの社殿が明るい雰囲気をかもし出していますが、
なによりここの境内はすぐ間際まで海が迫っているということで、
境内の空気は非常に開放的な印象です。
もっとも参詣&取材に訪れた元日は強烈な風が海から吹いてきて、
普通に立っていられないほどの強風に、境内奥でも海水の飛沫が感じられるほど。
拝殿前でお参りして、境内の写真を幾つか納めてとっとと退散してしまいました。

2015.01.01.awashima4.jpg
2015.01.01.awashima6.jpg
海の向こうに見えるのが同社の祭神がもともと祀られていたという友ヶ島。

同社は人形供養の神社としても有名で、拝殿周囲にも無数の雛人形をはじめとする
各種の人形が奉納されているのが見られました。
アップで写真撮るのもちょっと気が引けたので、
拡大写真はありません。

あ、狛犬は同社にはいませんでした。
今度は風のない、穏やかな日に訪ねてみたいと思います。

淡嶋神社 公式HP

(取材日:2015年1月1日)



コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

高野山町石道起点の寺社 [狛犬・寺社(和歌山県)]

和歌山県伊都郡九度山町、慈尊院の上段に鎮座する丹生官省符神社。
2015.01.01.niukanshoubu1.JPG

橋本市高野口(旧高野口町)から紀ノ川を渡った九度山町にある慈尊院は
弘法大師が建立した古刹。本尊の造弥勒仏坐像は国宝に指定されており、
重要文化財の本堂弥勒堂は世界遺産にも登録されています。

神社境内への入り口は慈尊院と同じ参道となっています。
2015.01.01.niukanshoubu2.JPG
2015.01.01.niukanshoubu3.JPG
2015.01.01.niukanshoubu4.JPG

重要文化財かつ世界遺産の弥勒堂。
2015.01.01.niukanshoubu5.JPG

慈尊院は女人禁制で高野山に入山できなかった
弘法大師の母親が在住した院としても知られており、
女人高野の名でも語られていますが、
大師が狩猟犬二頭の導きによって現在の霊場高野山に至ることになった、
その犬を導かせた猟師がじつは猟場明神であり、明神が神託をもって
自身に高野の一山をお与えくださったものであると得心し、
慈尊院を開山したのと同時に、同院の上段に丹生高野明神社を創建したことが
同社の起源であるとされています。

境内の下段に慈尊院、背後の高台に神社という配置になっていて、
多宝塔と参道石段の鳥居の様子が神仏習合の往時を偲ばせます。
2015.01.01.niukanshoubu6.JPG

119段ある石段は町の指定文化財。
2015.01.01.niukanshoubu7.JPG
2015.01.01.niukanshoubu8.JPG

その傍らには高野山町石道の名残を見ることができます。
2015.01.01.niukanshoubu10.JPG
2015.01.01.niukanshoubu9.JPG
高野山を訪れる際はいつも車での入山ですが、
体力のあるうちに一度は町石道を辿って入山してみたいですね。

石段を登りきったところに朱塗りの二ノ鳥居。
2015.01.01.niukanshoubu11.JPG

拝殿。
2015.01.01.niukanshoubu12.JPG

弊拝殿の向こう側に世界遺産の構成資産になっている朱塗りの本殿を望むことができます。
2015.01.01.niukanshoubu13.JPG
2015.01.01.niukanshoubu1.JPG

ご祭神は、
第一殿
丹生都比売大神 (丹生明神)
高野御子大神 (高野明神)
天照大御神 (天照大神)
第二殿
大食都比売大神 (気比明神)
誉田別大神 (八幡大神)
天児屋根大神 (春日大神)
第三殿
市杵島比売大神 (嚴島明神)

狛犬はこの本殿前にいるため、残念ながら一般の参詣者は近くに寄ることができません。
2015.01.01.niukanshoubu14.JPG2015.01.01.niukanshoubu15.JPG
凛々しそうな浪速狛犬ですね。

元日の参詣&取材だったので境内は人出が多く、
落ち着いた撮影のできなかったのが残念でした。
次に紀州を訪れる機会が来たら、ぜひ再訪したいと思います。

丹生官省符神社 公式HP

(取材日:2015年1月1日)




コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

大和神社近くの火の見やぐら [火の見櫓(奈良県)]

奈良県天理市兵庫町の火の見やぐら。
2014.13.31.tenrihyougo1.JPG
前エントリーの大和神社へ向かう道すがら、境内入口より北へ300mほど手前に
この火の見やぐらが立っているのを見かけ、引き返して取材。
2014.13.31.tenrihyougo2.JPG
道路はかつての上ッ道(上街道)と呼ばれる古代の主要道路だった道で、
すぐ東側には現在の街道、国道169号が走っていますが、
たしかに火の見やぐらのある周辺は旧街道の雰囲気を残している感じがします。
2014.13.31.tenrihyougo10.JPG

やぐらは多少色褪せてはいるものの、朱塗りが遠くからでも目立ちます。
2014.13.31.tenrihyougo3.JPG
背丈はさほど高くなく、踊り場もなくハシゴはダイレクトに見張り台まで。
2014.13.31.tenrihyougo9.JPG
さほど高くないとはいえ、滑落防止の囲いもない櫓外部のハシゴは
実際に昇るときに緊張するでしょうね。

一見した感じはありふれた4脚柱型のようですが、ブレースがユニークです。
2014.13.31.tenrihyougo6.JPG
基本的に小断面の山形鋼を用い、交差部は菱形プレート(?)を利用。
最下段とその直上のブレースは交差部にも横架材と同じような部材が
伸びてきていますが、裏側を見るとブレース勝ちの始末になっているので、
この横架材もどきがついている意味をどう考えればいいのか。

見張り台には半鐘とサイレンが装備。
2014.13.31.tenrihyougo4.JPG
近所の方に話を聞くとサイレンは使っているが
半鐘はもうたたいていないとのこと。
2014.13.31.tenrihyougo7.JPG
この子もやがては撤去される運命にあるでしょうか。

ところで上街道を歩いていると、こんなブロック塀を見かけました。
2014.13.31.tenrihyougo8.JPG
火の見やぐら師匠のU1教授がブログ「透明タペストリー」のカテゴリーで
「繰り返しの美学」というジャンルを設けていますが、果たしてこれも範疇となるでしょうかね?
CB積みをする際に少しずらして積み上げてそれをデザインにしているようなのですが、
他でも施工例のある、ありふれたデザインなのかどうか、自分の仕事では
CBで塀を設けることがないのでそのへんについて情報がありません。
はてさて。

(取材日:2014年12月31日)





コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

戦艦大和ゆかりの古社 [狛犬・寺社(奈良県)]

奈良県天理市新泉町、大和神社。
2014.12.31.ooyamato1.JPG

御祭神は
日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)
八千戈大神(やちほこのおおかみ)
御年大神(みとしのおおかみ)

同社HPの由緒によれば、
日本大国魂大神は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、
宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されていたものの、
崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ天照大神を皇女豊鋤入姫命をして
倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、
市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であるとしています。
要するに、伊勢神宮などと並び随一の古さを誇る古社ということになるわけですね。
2014.12.31.ooyamato3.JPG

また同社は奈良時代、朝廷の命により唐の国へ渡って学ぶ遣唐使、
その他使臣が出発に際して当社へ参詣し、交通安全を祈願したとされています。
そうした航海安全を古来より祈願されていたことから、
太平洋戦争当時には「戦艦大和」の守護神とされ、
同艦には大和神社の分霊が祀られていたそうで、
同社の祖霊社には戦艦大和が撃沈した際の殉死者2736名の御霊が祀られています。
2014.12.31.ooyamato9.JPG2014.12.31.ooyamato10.JPG

祖霊社。
2014.12.31.ooyamato8.JPG

名神大社であり、二十二社のうち中七社のひとつ。
旧社格は官幣大社で現在は別表神社。

境内は上ツ道と言われる古代官道沿いにあります。(近世の名称は上街道)
2014.12.31.ooyamato2.JPG

長い参道先に二の鳥居があり、その脇には今では珍しい下馬札。
2014.12.31.ooyamato4.JPG
2014.12.31.ooyamato5.JPG
現代風にいえば下車札、になりますかね。
ちなみに境内入口から続く参道の長さは
戦艦大和の全長263メートルとほぼ同じ長さになるそうです。

拝殿と本殿。
2014.12.31.ooyamato6.JPG
2014.12.31.ooyamato7.JPG
拝殿は壁のない吹き抜けになっており、本殿は春日造。

その手前に狛犬が一対います。
2014.12.31.ooyamato11.JPG2014.12.31.ooyamato12.JPG
2014.12.31.ooyamato13.JPG2014.12.31.ooyamato14.JPG
明治22(1889)年丑2月建立。

2014.12.31.ooyamato17.JPG2014.12.31.ooyamato18.JPG
2014.12.31.ooyamato15.JPG2014.12.31.ooyamato16.JPG
浪速狛犬。
凛々しい姿ですね。
2014.12.31.ooyamato19.JPG2014.12.31.ooyamato20.JPG
2014.12.31.ooyamato21.JPG2014.12.31.ooyamato22.JPG

社務所。
2014.12.31.ooyamato23.JPG

増御子神社。
2014.12.31.ooyamato24.JPG
ご祭神は猿田彦大神と天鈿女命。

境内には他にも数社の摂末社が在りましたが、
大晦日で境内もバタバタした空気だったのと、夕刻近付いていたので、
境内の諸社参拝は省略しました。

学生時代に奈良県に住んでいたころ、一度だけ参拝したことがありましたが、
簡単にお参りだけしてすぐ立ち去ったとかすかに記憶しています。
当時から狛犬はもちろん古事記の世界などさほど強い関心もなかったのですが、
同社の由緒など少しでも分かっていれば、もっとじっくりと参詣していたことでしょう。
関西には若かりし頃に参詣した神社もけっこうあるのですが、
そうした神社を再訪問するたび、そのような気持ちにさせられてしまいます。

(取材日:2014年12月31日)

大和神社公式HP




コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

信長公ゆかりの神社 [狛犬・寺社(岐阜県)]

岐阜県各務原市那加手力町、手力雄神社。
2014.12.31.tejikarao1.JPG
主祭神は手力雄神。

創建年は不明。
社伝によると5世紀末期ごろ同地を支配していた豪族により、
山の中腹に磐座祭祀として神様を祭ったのが始まりとされます。
2014.12.31.tejikarao3.JPG

中世、織田信長が稲葉山城攻略のため尾張から岐阜に入ったおり当社で戦勝祈願を行い、
祈願成就の後、各務野原近里の1300町歩を社領に付したのだそうです。
2014.12.31.tejikarao2.JPG
当初ご神紋は巴紋だったようですが、現在は織田木瓜紋になっています。

県道152号に面した正面の鳥居をくぐり参道歩くと、
二の鳥居の少し先に狛犬一対がいます。
2014.12.31.tejikarao5.JPG2014.12.31.tejikarao6.JPG
昭和9(1934)年3月建立。
岡崎出身だと思うのですが、標準的な岡崎現代型よりゴツゴツ感が強い印象です。

大晦日取材だったため、拝殿前は茅の輪があったりしています。
2014.12.31.tejikarao7.JPG

その拝殿前にもさらに一対。
2014.12.31.tejikarao8.JPG2014.12.31.tejikarao9.JPG
昭和9(1934)年4月建立。
こちらは比較的分かりやすい岡崎現代型のようですね。

両者の建立年月がひと月違いしかないのですね。

拝殿脇の渡り廊下の下をくぐり、本殿の近くに出ることが出来ます。

本殿と軒下彫刻の竜の雌雄は、市指定重要文化財。
2014.12.31.tejikarao10.JPG
2014.12.31.tejikarao11.JPG2014.12.31.tejikarao12.JPG
本殿そのものも立派ですが、竜の雌雄の彫刻は海老紅梁に絡みつく様子が見事です。

そしてその手前、拝殿との合間に石造狛犬が一対います。
2014.12.31.tejikarao13.JPG2014.12.31.tejikarao14.JPG
明治41(1908)年3月建立。
2014.12.31.tejikarao15.JPG2014.12.31.tejikarao16.JPG
来待石なのかどうか、自分はちょっと微妙ですが、
デザインは出雲丹後のような印象。
顔をちょっと斜め上方に向けている出雲丹後は
自分は見た経験がないので、実際はどうなんでしょうね。
明治の割には劣化が目立たないので違うのかな? よく分かりません。

社殿と狛犬のレイアウトが微妙な関係で、写真が撮りづらくて苦労しました。
2014.12.31.tejikarao17.JPG
拝殿側の外壁にこんなに近いもんですから。

あと、本殿の縁側に木造の神殿狛犬がいました。
2014.12.31.tejikarao18.JPG2014.12.31.tejikarao19.JPG
合計4対の子たちと出会いましたが、同社にはあと一対、
室町期制作らしい石造狛犬がいて県重要文化財指定を受けているそうです。
ぜひ見たかったです。
2014.12.31.tejikarao20.JPG

(取材日:2014年12月31日)

手力雄神社公式HP



コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

ゴルフ玉を咥えた狛犬 [狛犬・寺社(岐阜県)]

岐阜県各務原市各務おがせ町、神明神社。
2014.12.31.ogase1.JPG
岐阜県新八景にも選定されている同地のおがせ池。
2014.12.31.ogase15.JPG
漢字では苧ケ瀬と書くそうですが、その池の傍らに同社が鎮座しています。

境内もほんとに狭い、地域のローカルな神社ですが、
拝殿の向こう、本殿前に一対の狛犬が座っています。
2014.12.31.ogase2.JPG
2014.12.31.ogase3.JPG
2014.12.31.ogase4.JPG
昭和5(1930)年3月建立。
2014.12.31.ogase6.JPG2014.12.31.ogase7.JPG
浪速狛犬の風貌。
岐阜県は東海地方ですが、各務原は滋賀県にも近いエリアなので
関西の影響があると考えていいのでしょうかね。

阿形の口元に注目。
2014.12.31.ogase8.JPG2014.12.31.ogase9.JPG
なんと咥えている玉が石ではなくゴルフボール。
右側の歯が欠けているので、そこから無理やりねじ込んだのでしょう。
取り出そうと試みてみましたが、軽く引っ張ったくらいでは抜けませんでした。

神社探訪狛犬見聞録さんが10年前に同社を訪問したときの画像を見る限り、
口の中にはゴルフボールはおろか、石玉も咥えられていません。
まさかゴルフボールを無理やり突っ込んだことで歯が欠けたわけではないでしょうが、
そうだとしたら悲しいことで。ここはなにかの事情で欠けてしまった隙間から
誰かがふざけて突っ込んだものだと考えたいです。
それにしても、ゴルフボールなどという異物を咥えさせられて可哀想です。
2014.12.31.ogase10.JPG2014.12.31.ogase11.JPG
2014.12.31.ogase12.JPG2014.12.31.ogase13.JPG

一方、吽形のほうは愛くるしい子獅子が親獅子の背中におんぶされています。
2014.12.31.ogase14.JPG
浪速狛犬に子獅子が居ること自体珍しいのですが、
岐阜まで来るとその束縛が薄れているのでしょうか。
いづれにしても背中におんぶされているデザインは数少ないので貴重ですね。

ちなみに苧ヶ瀬池は農業用水のため池とのことですが、いろいろと伝説があるようです。
池には竜神が住み、池畔には八大竜王の社があり祀られており、
池に浮かぶように祀られた祠の前には岡崎現代型の狛犬たちもいます。
2014.12.31.ogase18.JPG
2014.12.31.ogase16.JPG2014.12.31.ogase17.JPG
池を周回する遊歩道も整備されていて、程よい距離で散歩できるいい環境でした。

(撮影日:2014年12月31日)



2014.12.31.ogase5.JPG2014.12.31.ogase7.JPG2014.12.31.ogase9.JPG2014.12.31.ogase11.JPG
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

各務原市に立つ登録有形文化財の火の見やぐら [火の見櫓(岐阜県)]

岐阜県各務原市、前野町の火の見やぐら。
2014.12.31.maeno1.JPG
業界(?)では有名、国登録有形文化財の一基です。
2014.12.31.maeno3.JPG

集落の狭い路地沿いに立っているのですが、
遠目から建物越しにも頭が望めるほど、集落内では高層で目立っています。
2014.12.31.maeno2.JPG
文化財データベースによれば高さ19mになるようです。

敷地はふれあいセンター前野という地区の集会場の一角で、
隣接して各務原市消防団第一分団第二消防部第四班前野班の消防倉庫が建っています。
2014.12.31.maeno12.JPG

近づいてみると、足元は注連縄と松飾りが。
2014.12.31.maeno4.JPG
取材日は大晦日だったので、時節柄といってしまえばそれまでですが、
それにしても他の火の見やぐらでは自分はまだ見かけたことがなかったので
とても新鮮でした。ただ、こういう防災施設に注連縄を張るというのは
本来は決して珍しくないことなのかもしれませんが。

屋根は丸型、見張り台は四角で半鐘はなし。
2014.12.31.maeno14.JPG
踊り場は張り出しタイプで、半鐘がここに装備されています。
木槌はないのかなと思っていると、よく見たら半鐘の内側に隠されていました。
2014.12.31.maeno10.JPG
そして画像では判り辛いのですが、頂部の屋根と半鐘に付属した小屋根は
同じようなデザインで制作されているのが特徴です。
鉄工所のささやかなこだわりといったところでしょうか。

全体的なプロポーションは非常にスリム。
脚部から屋根に至るまで柱は直線で構成されていて、
規則正しくやや細かなピッチの横架材とリング式ターンバックルの様子が
かなり煩雑な印象を受けそうになりつつも、柱を含めた鋼材が比較的細めなためか、
ゴツゴツとしたしつこさはあまり感じられません。

梯子は柱内部を貫通しており、取付き部は折り曲げられて納められています。
2014.12.31.maeno9.JPG
2014.12.31.maeno8.JPG
踊り場から2段目の梯子への取付きも、横架材のせいか取付きが折り曲げて始まっていますね。
2014.12.31.maeno15.JPG

そして脚部のフレームに装着されている幾つかの銘版に注目。

正面上部「那加消防組前野部」
2014.12.31.maeno5.JPG
正面中柱「昭和拾貳年壹月建設」(昭和12年1月)
2014.12.31.maeno6.JPG
正面左柱「岐阜 熊田商店鉄工部製」
2014.12.31.maeno7.JPG

いわゆる戦前の制作ですが、上部横書き文字の消防組部分は
現代と同じ左→右の書き方になっています。
一方、左柱の鉄工所名のプレートにある岐阜の文字は右→左です。
同じやぐらのプレートとしてこれをどう解釈すればいいのか。

戦前とはいえ左→右の書き方がなかったわけではないので、
消防組の記載はたまたまそういう"新しい”書き方になってしまったという可能性。
しかしそれでは岐阜の文字が旧来の書き方になっていることとの整合性がとれません。

別の可能性として、消防組のプレートは戦後になって左書きが一般になってから
新たに設置されたものである解釈。ただし昭和12年建設の直後に消防組は
全国的に警防団へと改編され、さらに戦後は消防団という形で再スタートしています。
こうした流れの中であえて戦前の名称をプレートに左書きで記す必要があったのか、
少々疑問が残るところでもあります。

地元の関係者に聞けばすぐに正解が分かるのかもしれませんが、
とりあえず今のところは素朴な疑問ということにしておきたいと思います。

あと、やぐらの場所の斜め向かいにお寺があり、
運よく寺の鐘と火の見やぐらの半鐘とのツーショット写真を撮ることができました。
2014.12.31.maeno11.JPG
これも撮れそうでなかなか巡り合えないシチュエーションかなと。

これまでインターネットや書籍でこの火の見やぐらを見るにつけ、
登録有形文化財としては昭和12年という比較的新しい分類にあたり、
また外観もこれといって他所にはない特異な要素を持っているとも思えなかったので、
こんな感じでも登録文化財になれるんだ、というのが正直な印象だったのですが、
実際に現地にやって来て、なるほど登録されるだけのことはあるなという印象に変わりました。

屋根デザインやすっきりしたプロポーション、集落景観に馴染んだ様子などは
確かに文化財の構成要素として大切なのですが、自分が感心したのは
脚部基礎周りをきれいに石積みで囲って芝生を植えこんであったり
正月用の注連縄や松飾りの様子などに表れているように、住民と火の見やぐらの関わりが
いかに深いものであるか、という地域からの愛され方そのものでした。
どんなにすばらしい歴史遺産であっても、住民が関心を示さなければ価値が評価されない、
ただの構造物になってしまいます。やはり登録文化財として評価されるのに最も大切なのは、
当該物件の構造やデザイン的評価より以上に地域の熱意と愛情なんだということが、
この火の見やぐらと向き合って改めて感じ入ったことでした。
2014.12.31.maeno13.JPG

(撮影日:2014年12月31日)



コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。